プレコーショナリ政策

    健康リスクを管理する手法には、有害性の大きさと不確実性によって、「何もしない」から「禁止措置」まで幅広い選択肢があります。リスクに関連する有害性が小さく、またその発生が不確実であれば、何か措置を講じてもその効果はほとんどないと考えられます。一方、潜在的な有害性が大きく、その発生がほぼ確実であれば、禁止措置などの根本的措置が必要です(下図参照)。
    世界各国では、科学的不確かさを考慮して、健康リスク管理に「プレコーション的アプローチ(Precautionary Approach)」を採用したり、採用を検討しています。用心を促すための政策には、プレコーショナリ原則の他に、慎重なる回避、ALARAなどがあります1)

プレコーショナリ政策

■不確かさがある場合における対策の対応範囲
Kheifets L 他;プレコーショナリ原則とEMF:その実施と評価、
Journal of Risk Research 4(2), 113-125 (2001) から改作

プレコーショナリ原則

    プレコーショナリ原則(Precautionary Principle)は、地球温暖化や狂牛病、遺伝子組換え食品などで「予防原則」と日本語訳されている原則に相当します。一方、公害問題でも「予防原則」という言葉が使われていますが、この場合の英語はPreventive Principle です。意味の違う英語を同じ「予防原則」と日本語訳しているため、さまざまな誤解が生じています2)。「予防」という日本語は、リスクの存在や大きさがある程度わかっているものに対し、そのようなリスクから人を予め防護する(prevention)という意味です。予防注射などが典型例です。一方、プレコーション(precaution)は「前もって注意をする」の意であり、リスクの存在や大きさがわからない場合への対応に用います。
    「precaution」と「prevention」の語義を踏まえ、明確に区別を付けた日本語として、Precautionary Principle は「念のための原則」「用心原則」「プレコーショナリ原則」、Preventive Principle は「未然防止原則」とするのが妥当です。
    「プレコーショナリ原則」は、科学的不確かさが高く、重大になる可能性があるリスクに対して科学的な研究結果を待たずに対策を取るリスク管理政策で、欧州委員会(EU) 加盟国にはローマ条約があり、そこには「環境に関する欧州共同体の政策は、(中略)プレコーショナリ原則に基づくべきである」と記されています。この原則が採用された例には、狂牛病(BSE)感染のリスクを制限する観点から英国産牛肉を禁止した欧州委員会の決定があります。
    2000年、欧州委員会はプレコーショナリ原則にもとづく対策を適用する場合の要件として、以下の項目を示しています3)

  •  選択された防護水準に見合うものであること。
  •  その適用に差別がないこと、つまり、類似する状況を同等に扱うこと。
  •  既に実施中の同等の措置と一貫性があること、つまり、全ての科学的データが利用可能な同等の分野において、すでに講じられている対策と、その適用範囲と性質において同等であること。
  •  対策を実施する場合と実施しない場合の、コストと期待できる便益の検討(適切かつ可能であるならばコスト・便益の経済分析を含む)にもとづくこと。
  •  本質的に暫定的であること、つまり新たな科学的データに照らした再検討を必要条件とすること。
  •  より包括的なリスク評価に必要な科学的証拠を提出する責任を付与できること。

    電磁界ばく露の健康影響への懸念にともなう社会問題でも、プレコーショナリ原則を適用すべきとの議論がありますが、世界保健機関(WHO)は2000年に背景説明資料「コーショナリ政策」1)で、そのことに関し、以下のように述べています。

    電磁界ばく露に関する慎重なる回避やその他のコーショナリ政策(Cautionary Policies)は、これらの政策は「科学的に立証されていないリスクに対して特例的な防護を提供するもの」と信じている多くの市民から好評を得ます。しかし、そのようなやり方には、その政策の適用上の多くの問題があります。第一の問題点は、推奨ガイドラインを下回るレベルの電磁界への長期間ばく露によるハザードの明らかな証拠がないこと、または、仮にハザードがあるとしてもその性質が何もわかっていないことです。コーショナリ政策に踏み切るために必要とされる証拠の重みは、ばく露ガイドラインの設定に必要とされる証拠の重みより明らかに低いものであるとしても、少なくとも、ハザード(有害性・障害性)とするものが明確である必要がありますし、そのハザードが起きると思われる条件について何らかの理解ができていることが必要です。もうひとつの問題点は、近代社会では至るところに、非常に多様なレベルの、そして幅広い周波数範囲にわたる電磁界ばく露が存在することです。したがって、一貫性と公平性があるコーショナリ政策を作り上げることは困難です。例えば、典型的な都市環境では、低出力の通信用送信機から非常に高出力の放送用送信機まで、多数の無線周波の送信機が存在しています。同じ都市地域に、携帯電話基地局よりはるかに高出力の発生源が存在することを考えると、携帯電話基地局から発生する無線周波電磁界へのばく露を最小化する、公正で一貫性のあるコーショナリ政策を立案することは困難です。実際、携帯電話アンテナ塔に対するコーショナリ政策の実施の試みは、典型的には、その環境中のそれ以外の(さらに強い)無線周波エネルギー発生源に注意を払うことなく、ばらばらな根拠にもとづいて行われています。(中略)以上の考察が示すように、電磁界に対するコーショナリ政策は、十分な注意と慎重さをもって初めて採用されることになります。欧州委員会が規定したような、この政策の要件は、超低周波または無線周波の電磁界いずれの場合にも満たされないように思われます。(以上)

    EU としても2000年、電磁界ばく露にプレコーショナリ原則を適用すべきかの検討も行われましたが、リスクの存在が確認されていない為、適用されないとの判断が示されました4)

慎重なる回避(Prudent Avoidance)

    慎重なる回避における“慎重なる(Prudent)”とは、リスクに対する判断ではなく、費用に関連したものです。それは、ばく露制限を恣意的に低いレベルに設定し、費用に関係なくその達成を要求するのではなく、低コストで人々の電磁界ばく露を低減する措置を採用することを意味しています。健康に利益があるか否かの評価はここでは求められません。慎重なる回避は、電力分野のリスク管理政策として、オーストラリア、スウェーデン、米国の複数の州で採用されています。「過度の不都合を生じないで」実行でき、かつ「低コスト」で行える措置には、電力線を学校から遠ざけて敷設すること、電力線用地付近の磁界を減らすよう電線の位相を調整することなどがあります。

ALARA

    ALARAという用語は、As Low As Reasonably Achievable(合理的に達成できる限り低く)の頭文字から生まれました。これは、費用、技術、公衆衛生と安全上の利益、その他の社会的経済的関心を考慮した上で、ばく露を合理的に可能な限り低く保つことで、既知のリスクを最小化するためにとられる方策です。ALARA は主に電離放射線防護の分野で用いられています。
    電離放射線の健康影響には「閾値」が存在しないとの前提があります。その前提にもとづき、一定期間のばく露量(単位はミリシーベルト)がどの程度のレベルであれば「受容可能なリスク」であるかとの判断にもとづき制限値が設定されています。この場合、ある集団としての「受容可能なリスク」が判断されるわけですから、当然ながら「受容可能なリスク」の構成要素が個人によって異なることを考えれば、推奨された制限値を下回るレベルであっても存在するかも知れないリスクを最小化することが求められます。
    これまでに、ALARAが電磁界のばく露に関する公共政策設定に適用されたことはありません。推奨ガイドラインを下回るレベルの電磁界への長期間ばく露によるハザードの明らかな証拠がみつからないので、電磁界(超低周波と無線周波のどちらについても)に適した方策とはいえません。

ガイドライン制限値との関係

    WHOは、電磁界に対するコーショナリ政策は、十分な注意と慎重さをもって初めて採用されますが、恣意的なコーショナリ政策の採用によって科学的なリスク評価と科学にもとづくばく露制限が間接的に損なわれることはないとの条件のもとにおいてのみ、そのような政策が採用される、またガイドラインによるリスク管理の代替物ではなく、その付加物だと考える必要があると述べています。
    その例として、ファクトシートNo.322「超低周波の電界と磁界」では、超低周波磁界と小児白血病に関するWHOからのガイダンスとして、「長期的影響に関しては、超低周波磁界へのばく露と小児白血病との関連についての証拠が弱いことから、ばく露低減によって小児白血病の発症が減少するかどうか不明である。以上のことから、(略)新たな設備を建設する、または新たな装置(電気製品を含む)を設計する際には、ばく露低減のための低費用の方法を探索しても良い。ただし、恣意的に低いばく露限度の採用に基づく政策は是認されない。」5)と述べています。
    また、環境保健クライテリアNo.238「超低周波電磁界」のなかで「プレコーション的ばく露限度-プレコーション的方策のひとつとして、一部の国々ではばく露限度の引き下げを実施している。たとえば、イタリアは2003年にICNIRP基準を採用したが、電磁界ばく露に関してさらに2つの限度を導入した(Government of Italy、2003):(a)児童公園、住宅地、学校の構内など特定の場所に対する、ICNIRPの参考レベルの10分の1の「注意値」、および(b)新しい発生源および新築住宅にのみ適用される、より限定的な「品質目標」の2つである。50ヘルツに対して選ばれた値は、それぞれ10マイクロテスラおよび3マイクロテスラで、これらは恣意的なものである。そのレベルで起こりうる急性影響の証拠もなければ、3マイクロテスラのばく露が10または100マイクロテスラのばく露よりも安全であると示唆する、白血病の疫学研究からの証拠もない。」6)と述べています。

[参考資料]

1)
「WHO背景説明資料 コーショナリ政策」“Backgrounder on Cautionary Policies” Backgrounder, WHO(世界保健機関) (2000)
http://www.who.int/docstore/peh-emf/publications/facts_press/EMF-Precaution.htm
https://www.jeic-emf.jp/assets/files/pdf/faq/Haikei_1.pdf (和文)
2)
「環境政策における予防的方策・予防原則のあり方に関する研究会報告書」, 環境省(2004)
http://www.env.go.jp/policy/report/h16-03/main.pdf
3)
“Communication from the commission on the precautionary principle” Commission of the European Communities(2000)
https://op.europa.eu/en/publication-detail/-/publication/21676661-a79f-4153-b984-aeb28f07c80a/language-en
4)
“European Council, Implementation report on the Council Recommendation limiting the public exposure to electromagnetic fields(0 Hz to 300 GHz)” European Commission(欧州委員会)(2002)
http://ec.europa.eu/health/ph_determinants/environment/EMF/implement_rep_en.pdf
5)
「WHOファクトシートNo.322超低周波電磁界へのばく露」“Exposure to extremely low frequency fields” Fact SheetNo.332, WHO(世界保健機関)(2007)
http://www.who.int/peh-emf/publications/facts/fs322/en/index.html
http://www.who.int/entity/peh-emf/publications/facts/fs322_ELF_fields_japaneseV2.pdf (和文)
6)
「WHO環境保健クライテリアNo.238 超低周波電磁界」“Environmental Health Criteria Monograph No.238, Extremely low frequency” WHO(世界保健機関)(2007)
http://www.who.int/peh-emf/publications/elf_ehc/en/index.html
http://www.env.go.jp/chemi/electric/material/ehc238_j.pdf (環境省:和文)

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