たこの実験で雷と摩擦電気の電気現象が同じであることを明らかにしたフランクリンは、ライデン瓶に関する実験も行っています。

岩波の理化学辞典によると、ライデン瓶は「ガラス瓶の底および側面の内外両面に錫箔を貼ったコンデンサー。蓋の中央を通して入れた金属棒の先端に鎖をつなぎ、底の内部の錫箔に接触させてある。ガラスには絶縁をよくするために多くはシェラックなどを塗っておく。ライデン大学のミュツセンブルークが1746年にはじめてこれを用いて放電実験をしたが、同じころ、1745年ドイツのフォン・クライスト(von Kleist, E.G)もこの装置を考案した。」とあります。ミュツセンブルーク(Musschenbroek:1692-1761)は、ライデン大学の教授、フォン・クライスト(1700-1748)はプロイセン生まれで、ライデン大学で教育を受けています。ライデン大学に席を置き教育を受けた二人ですが、それぞれ独自に、また偶然にライデン瓶を考案したとされています。 前回で述べたフランスの修道院の院長ジーン・アントン・ノレ師は、ライデン瓶を使った実験を数多く行い、ライデン瓶の名前の由来はノレ師によるとも言われています。

フランクリンは、40歳の時、ボストンでスコットランドから来ていたスペンス博士の静電気を使った実験を見て、その実験に興味をもってフィラデルフィアに戻ってから電気の実験を始めました。その経過をフランクリンは、自伝の中に次のように書いています。 「フュラデルフィアに戻るとまもなく、ロンドンのイギリス学士院の会員ピーター・コリンソンから組合図書館にあてて、この種の実験(注:電気の実験)に使う時の心得帳を添えてガラス管(注:ライデン瓶)を一本寄贈してきた。私はこれ幸いとばかりにすぐさまボストンで見た実験を繰返し、また大いに練習した結果、イギリスから説明書のきた実験がとてもうまくやれるようになっただけでなく新しい実験もいくつかできるようになった。(中略)私たちはコリンソン氏の厚意でガラス管その他を送られたのであるから、その使用に成功したことは彼に報告すべきであると考え、私は数通の手紙を書いて、私たちの実験の結果を説明した。」このように送った手紙の中に、稲妻と電気火花は同じ性質を持つのではないかとする実験、またその説明に電気の一流体説をとっている内容などが含まれています。フランクリンは、1747年から1755年にかけて行った電気についての実験の多くの結果をコリンソンに送り続けました。コリンソンらによってそれらの手紙はまとめられ、論文集となり、イギリスで出版されました。 その後、論文集で提案した実験、雲の中から稲妻を導き出す実験などがフランスで成功して、科学者としてのフランクリンの名前がヨーロッパで次第に有名になっていき、1756年にはイギリスの王立協会の会員になっています。

わが国では、関が原の戦いに勝って覇権を握った徳川幕府が、その後300年近くにわたる鎖国政策を取っていきました。しかし、鎖国する以前から、ポルトガルなど南蛮の国との交易を通して、西洋の学術がわが国に輸入されてきていたのも事実であり、有名な出来事として種子島に鉄砲がもたらされたのは鎖国前の1543年です。しかし、鎖国後、西洋の学術は、細々と長崎の出島での交易を通して入ってきていたと考えられます。

我々日本人には、江戸時代で電気を扱った歴史上で有名な人物はと聞いてすぐに浮かんでくるのが平賀源内です。しかし、電気学の祖としての源内の名前よりも、むしろ、土用の丑の日にウナギを食べることを仕掛けた人物として多くの人に知られています。そのため、源内がどのような人物であったかは意外と知られていないのではないでしょうか。広辞苑を開いてみると「平賀源内(1728-1779:享保13年-安永8年)は「江戸中期の本草学者・科学者・偽作者。鳩渓・福内鬼外・風来山人・森羅万象などの号がある。讃岐の人。国学・蘭学・物産学・本草学を研究。初めてエレキテル(摩擦起電機)を発明して治療に応用。後、戯作に没頭。浄瑠璃「神霊矢口渡」、滑稽本「風流志道軒伝」は有名。安永8年狂気して門弟を殺し、獄中に没。」とあります。

源内は、高松藩、讃岐の国志度の片田舎で生まれています。源内が生きていた頃は、第8代将軍・吉宗が享保の改革を進め、吉宗は鎖国政策をとりながら洋書の輸入の解禁を行い、第9代将軍家重のお側用人となった田沼意次(1719-1788:享保4年-天明8年)が、次第に幕府の実権を握っていった時代です。田沼意次は源内のパトロンであったとも言われています。また、源内が生きていた時代は、ボルタとガルバーニによる動物電気、金属電気の議論がイタリアで引き起こされる時とほぼ同時代です。

電気に関する知識は、長崎の出島を通して細々とわが国にもたらされたと考えられ、源内が、オランダ製の摩擦起電機(後のエレキテル)と出会ったのは、長崎に出かけた1770年から1771年頃のことと言われています。それ以前、36歳の源内は、秩父で石綿を発見し、火浣布(アスベスト)を作ったとされています。源内は、長崎から持って帰ってきた壊れたエレキテルに工夫を加えて、約7年の歳月をかけて1776年にエレキテルを修復し完成させています。歴史上では、電気を発生させる機械を最初に作ったのはドイツのゲーリック(Otto von Guericke:1602-1686)で、1663年頃のことと言われています。その後、1775年にボルタが電気盆を発明してから、次第に摩擦起電機は廃れていきました。源内はこのような時代に生きていたのです。

現在、源内が作ったエレキテルは、香川県さぬき市志度の平賀源内記念館、郵政公社の郵政資料館の2箇所で見ることができます。源内は、このエレキテルを用いて、火花の実験や医師に電気治療を進めたりしたとされていますが、1779年、源内は獄中で死亡しており、その死因については、破傷風と絶食死の2通りの説が取りざたされています。

さて、松ノ木を使って雷の実験を行った宗吉は、ライデン瓶を使って多くの実験をして世間を賑わしたようです。記録に残っている一つに、「襖障子ごしに百人嚇を試る図」があります。ここでは大勢の人に電気ショックを与えて、電気の不思議を楽しんでいる様子が見えます。これを見ると多くの人が順々に手をつないでいき、一人がふすまの引き手の一端に手をおき、手をつなぎ終わったもう一人がもう一方の引き手にさわると全員にしびれ、ショックを受ける様子が手に取るように見えます。図(図は省略)では、30 人ほどが手をつないで、右側の二人が襖の金属の部分に手を触れています。

図(図は省略)の右で見えているエレキテルの電極が襖の金属の部分につながっていて、襖の陰に隠れてエレキテルを操作している人が電気を流すと多くの人が電気のショック、感電でびっくりする様子を示しています。宗吉は、天保7年(1836)に74歳で亡くなっていますが、翌年の1837年にはアメリカからモールス信号を用いた電信がモールス(Samuel Finley Breese Morse:1791-1872)により発明されています。

佐久間象山(1811-1864:文化8年-元治元年)も、電気学について独自に先駆的な数多くの試みを行っています。吉田松陰の師として、また勝海舟(1823-1899:文政6年-明治32年)の妹を妻とした佐久間象山は、長野、信州松代藩の下級武士として生まれ、江戸で朱子学・漢学・蘭学ならびに洋学を学んでいます。1844年(弘化元年)に、象山は藩主真田幸貫にオランダ語の「ショメール百科事典」16冊を金40両で購入させ、この事典を参考にして様々な科学実験を行っていきました。特に電気に関する実験では、ダニエル電池で感応コイルを作り、高圧の弱電流を発生させ、人体に電流を流す電気的な治療機を作っています。また、象山はわが国で始めて電信機を作った人物とされています。政治的には、鎖国政策を憂いた象山は、吉田松蔭(1830-1859:文政13年-安政6年)に向かって、国禁を犯して海外渡航をすべきとけしかけています。しかし、松蔭の渡航計画は失敗し、松蔭は萩に、象山は江戸伝馬町の牢獄に入れられました。その後、郷里の松代で、藩主により1854年から1862年まで蟄居を命じられています。1864年、蟄居を解かれた象山は、一橋慶喜に招かれて京に上った同年7月に尊皇攘夷派の凶刃に倒れています。

源内が獄死した安永8年は、第10代徳川家治が江戸幕府の将軍でした。宗吉が死んだ天保7年時、西暦1836年の江戸幕府将軍は第11代徳川家斉であり、天保3年から8年にかけて天保の大飢饉があり、天保年間は、徳川が江戸に幕府を敷いて200年ほどが経過し、幕藩体制のひずみが顕在化していった時でした。大塩平八郎の乱が大阪で起き、天保10年には言論弾圧事件として有名な蛮社の獄が起き、渡辺崋山、高野長英が追われていました。

象山は妻の順(のちに瑞枝)がコレラに罹った時に、電気治療機を用いて治療を行った話が伝わっています。また、勝海舟の「氷川清話」を見ると、義兄弟であった象山のことを「佐久間象山は、物識り(ものしり)だったヨ。学問も博(ひろ)し、見識も多少持って居たよ。しかし、どうも法螺(ほら)吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当らしたらどうだろうか・・・・。何とも保証は出来ないノー。あれは、あれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られたからでもあろう。」と印象を述べています。

さて、久生十蘭の数多い小説の中に「平賀源内捕物帳」があります。タイトルから分かるように、源内が主役の探偵役となって、御用聞きの伝兵衛とともに難事件を解決していきます。捕物帳で、源内は、神田白壁町の裏長屋に住んでいる一風変わった本草、究理(科学)の大博士。日本で最初の電気機械、「発電箱」を模作するかと思うと、回転蚊取器なんというとぼけたものも発明する、などと紹介されています。 究理に基づいた推理で難なく難事件の解決、一度読まれてみてはいかがでしょうか。

以上、わが国の電気学の歴史に名を残している3人を見ると、源内の最後は、牢獄死。宗吉は、耶蘇教の嫌疑での死亡。象山は、長年の蟄居後の蟄居を解かれた直後、京都での尊皇攘夷派による凶刀による客死。源内が死んだ時、宗吉は16歳。象山はまだ生まれておらず、宗吉が死亡したのは象山25歳の時でした。 3人の間にはどのような交流があったのでしょうか。

象山は、海舟の印象をもとにイメージを膨らませると、陣羽織を着てロシュナンテに乗り、鎧を着て兜を被ったサンチョパンサのような下級武士を供に引き連れたドンキホーテでしょうか。今では神として祀られています。土用の丑の日にウナギを食べることを仕掛けた源内は、落語ならば、八さん熊さんを供に引き連れ横丁長屋で勝手気ままな生活をおくっているが、長屋の住人には一目置かれている存在。宗吉からは、武家屋敷の上座に正座し、弟子を相手に昼間から清く正しく学問に勤しんでいる姿が想像されるのは私だけでしょうか。

象山が死んだ1864年は、池田屋事件、禁門の変、四国連合艦隊下関砲撃事件などが起きた年で、日本の歴史が大きく動いていった時です。この時代、天皇は孝明天皇、江戸幕府将軍は第14代徳川家茂で、正室は悲劇の和宮親子内親王でした。その後、1868年(慶応4年:明治元年)には、勝海舟と西郷隆盛との間で江戸城無血開城が取りまとめられ、明治新政府が体制を整えていった激動の時でした。一昨年、平成20年のNHKの大河歴史ドラマでは、幕末を舞台にして女性達の姿に焦点を当て、女性の目から幕末の動乱を鳥瞰した「篤姫」が放映されました。篤姫は、第13代将軍の徳川家定の正室。「篤姫」は、NHKの歴史大河ドラマとして、久しぶりに視聴率が良かったということで評判でした。

電磁界情報センターに程近い、JR山手線田町駅三田口近く、三菱自動車本社前横に、勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城をめぐって会談を設けた薩摩屋敷跡を示す丸い形の記念の石碑が建っています。 幕末に活躍した海舟は、77歳の喜寿を迎え1899年(明治32年)まで生きました。当時では長寿と言えます。

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