幻想や怪奇を主題としたゴシックロマンスとして名高いイギリス、ホーレス・ウォルポール(Horace Walpole:1717-1797)の「オトラント城綺譚」(1763)の最後、“「なに、娘は絶命?」とかれは狂乱の体で叫んだ。

その刹那、轟然たる落雷の音が、オトラントの城を礎まで揺るがした。”と、オトラントの城が雷とともに解体し、城主に天罰が落ち、その後、城の主は城主の権利放棄に署名をして修道院で受戒を受けたと書かれています。落雷は神の怒りの象徴と見なされて。

イギリス女性シェリー夫人(Mary Shelly:1797-1851)は、若干21 歳の時に、稲妻が炸裂して死体を電気で蘇生させて人造人間を作る有名なSF小説「フランケンシュタイン」(1818)を創作しています。 この場合には、雷を生命の根源と見なして。実際の小説では、創られた人造人間には名前がないのですが、なぜか人造人間を創造した天才科学者フランケンシュタインが、あたかも人造人間であるかのごとく多くの読者を惹きつけています。

フランスの偉大なる作家ヴィクトル・ユゴー(Victor Marie Hugo:1802-1885)の数ある小説の中で、特にわが国の多くの読者を惹きつけてやまない有名な小説に「レ・ミゼラブル」(1862)があります。古くは「ああ無情」と訳され、このタイトルを目にし、耳にすると、主人公のジャン・ヴァルジャン、彼を追い掛け付け狙う探偵ジャヴェル、孤児コゼット、恋人のマリユスなどの名前がすぐに浮かんでくる方がいらっしゃるのではないでしょうか。さて、ユーゴーが21歳の時に初めて上程した小説に「氷島奇談」(原題「アイルランドのハン」)(1823)があり、雷、落雷、稲光が効果的に使われています。 主人公オルデネルが案内人のスピアグドリと一緒の旅の途中で激しい雨に見舞われ、死刑執行人とジピシーの妻が住む朽ちた塔で雨宿りを求め、山賊が住んでいる洞窟へ主人公が導かれる場面などで不気味さや恐怖をもたらすものとして。

大気中の目に見えない二酸化窒素、酸素などの気体分子や水滴・塵埃などは、雷放電・紫外線・放射線などによって電離し、電荷をもった空気イオンとして存在しています。自然の大気中では、これら多くの帯電した物質からなる空中電気があり、それらが雷雲として様々な電気現象、雷、落雷、稲光などとして目にすることとなります。アメリカ・フィラデルフィアのベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706-1790)は、雷雲に向かってたこを揚げ、たこの糸から伝わってくる雷放電による電気をライデン瓶に蓄え、この電気が起電機で生じた電気と同じ効果を生じることを発見しました。 すなわち、空中電気と摩擦による電気、摩擦電気は同じであることを証明しました。

フランクリンは、それまでに発見されている雷鳴や稲光など様々な電気現象を明らかにするために、電気の本質に迫る電気の一流体説を唱えました。 これは電気流体が平常よりも多ければ「正(プラス)」に、少なければ「負(マイナス)」に帯電するという説で、流体が物体の内外で平衡を保った場合には物体が無電気であるとするものです。 これは、たこを雷雲中にあげた実験を基にして推測したとされています。またフランクリンは、稲妻と電気火花とが一致するには次のような根拠と証拠を示しています。

  • 光と音の類似、現象の瞬間性がある。
  • 電気火花も稲妻もともに物体を燃焼させる。
  • 両者は生物を殺す力がある。
  • 両者は機械的破壊を起こし、硫黄が燃えたときのような臭気を発する(この臭気は、のちにオゾンと呼ばれるようになりました)。
  • 稲妻と電気は同一の導体を伝わる。
  • 両者は磁気をかく乱し、磁石の極さえも逆さにすることができる。
  • 電気火花によっても、稲妻によっても金属を融解することができる。

雷と摩擦電気の電気現象が同じであることについて、フランクリンが電気の一流体説を唱える前、フランスの科学者は電気の二流体説によって電気の成因を説明できると主張していました。その代表たる研究者が修道院の院長ジーン・アントン・ノレ師(Jean Antoine Nollet:1700-1770)です。 しかし、実際には、ノレ師に先立って、フランスの科学者デュフェイ(Charles Francois de Cisternai du Fay:1698-1739)が、電気には樹脂電気、ガラス電気の2種類があると考えていました。 異種は引き合い、同種の電気は反発するとし、電気を液体のようなものとすると電気現象を説明できるとする説です。 ヨーロッパ中に名前が響き渡っていた高名な科学者であるノレ師は、このような説を基にして独自に電気に関する研究を進めていきました。 ノレ師は、ベルサイユ宮殿でルイ15世の前で、ライデン瓶で貯めた電気を180名ほどの兵士に通した放電実験を行い、放電による強烈なショックで兵士が高く飛び上がり観客がびっくりするような実験を行っています。ライデン瓶の名づけ親もノレ師と言われています。ノレ師は1745年頃から、電気を加えると植物の蒸散が盛んになるなどの実験結果も報告しています。このころのわが国では、平賀源内が活躍しエレキテルを作ったとされる時代です。

ノレ師は、たこを使った実験で有名なフランクリンを向こうにまわして電気の問題、空中電気の成因についてさまざまな立ち回りを演じましたが、最終的にはフランクリンが勝利しています。当時のヨーロッパでは、ノレ師らが唱えた電気の二流体説が一般的に受け入れられていましたが、ヨーロッパから遠く離れた科学の発達していない植民地であるアメリカで、ノレ師は自分達の学説に反対する研究が発表されたことが信じられず、フランクリンが唱えた説に疑問を抱き始めました。

ノレ師は次第に過激になっていき、電気の成因に一流体説を唱えたフランクリンの仮説、また実験が間違っているとフランクリンに手紙を何度も送りつけて反論を加えていきました。しかし、フランクリンは自伝の中で、「私も、一度はノレ師に答えようと考え、事実、返事を書き始めさえしたのだったが、考えて見れば、私の本には実験の記録がのっているのだから、誰でも実験を繰り返して確かめて見ることができるし、それができないようなら私の説は守ることができないことになる。観測の結果の種々の説にしても、仮説として提出したのであって何も独断的に述べたわけではないから、いちいち弁解する義務はない。(略)論文の運命はそのまま自然の成り行きにまかせることにし、私はノレ師に一度も回答しなかった。」と述べています。フランクリンの自伝は、世界中で読み継がれ、日本でも広く読まれており、わが国では、福沢諭吉の「福翁自伝」に匹敵するほど、文学史上優れた自伝だと言われています。その後、フランクリンが唱えた一流体説は、 ノレ師らが唱えた二流体説にとって代わって次第に受け入れられていきました。1753年、フランクリンはイギリスの王立協会からコプレー賞を授与されています。

今日、電気流体と言われているものの実体は電子であることはよく知られています。例えば、プラスチックで布などを擦って電気を帯びさせる現象は、多くの電子が移動する現象であり、2つの物質間に電流が流れる場合には電子が流れることを意味しています。この場合、物質の性質を導き出す原子構造が分かっていない昔から、電気の正(プラス)・負(マイナス)については、フランクリンの一流体説による定義を尊重して、またアンペールの論文から得られた結果から、電流の流れる方向を慣習的に正から負の方向に流れるとしてきていました。さて、イギリスのジェ・ジェ・トムソン(J.J.Thomson: 1856-1940)が、物質の性質を決める原子構造は、中心に正の電荷を持った原子核が存在し、その周りを負の電荷を持った電子が運動していることを見出しました。この性質のため、電流を電子の流れとすると、負の電荷を持った電子が動く方向は昔から経験的に定めている電流の流れる方向とは反対方向になることになります。

ノレ師が活躍した1700年代はベルサイユ宮殿が完成(1710)し、ハプスブルグ家、オーストリアの女公マリア・テレジアが63歳で死ぬまで覇権を握り(1740-1780)、1789年のフランス革命時にドイツのエルランゲンに生まれたのが「オームの法則」で有名なオームです。それに先立つこと、イギリスでは、デフォーが「ロビンソン・クルーソー」を1719年に書いています。また、スウイフトによる「ガリバー旅行記」は1726年に書かれています。アメリカでは、先に述べたようにフランクリンが稲妻と電気の同一性を見出し、避雷針を発明したのが1752年で、ボストン茶会事件(1773)、その後独立宣言の採択が1776年で、フランクリンは独立宣言の起草委員に選ばれています。1783年には、イギリスとアメリカ合衆国の間に平和条約が締結され、合衆国の独立が承認されています。その後、フランス革命が起こった1789年には、合衆国初代大統領にワシントンが選ばれています。なお、フランクリンは初代のフランス大使を勤めています。

1700年代のわが国の歴史を見てみると、赤穂浪士の討ち入りが1702年(元禄15年)、江戸幕府の大奥を舞台にした有名な絵島生島事件が1714年(正徳4年)に起き、杉田玄白(1733-1817)らによる解体新書が1774年(安永3年)に出版され、平賀源内(1728-1779)によるエレキテルの完成が1776年(安永5年)です。 このように1700年代には、わが国でも歴史の教科書に載るような歴史上興味ある事件が次々と起きています。

さて、わが国の電気学の歴史を見てみると、平賀源内が製作したとされるエレキテルが有名ですが、江戸時代、たこを揚げたフランクリンと同じような実験を行った人物が大阪にいました。橋本宗吉(1763-1836:宝暦13年‐天保7年)がその人です。広辞苑では、「蘭学者、我国電気学の祖。号は曇斎。大阪の人。江戸の大槻玄沢に学び、帰って学塾を開いた。文政12年(1829)、耶蘇教徒の嫌疑を受けて処罰。」と紹介されています。宗吉は、徳島、阿波の国で生まれた父と共に大阪に出ていますが、宗吉自身が、阿波生まれか大阪で生まれたかは定かではないようです。 江戸においてはわずか4ヶ月でオランダ語を習得したといわれており、杉田玄白の孫弟子にあたります。

1809年以降、47才頃から宗吉は、エレキテルの研究を志し、いろいろな実験を行っています。特に有名なのは「泉州熊取にて天の火を取たる図説」として記録に残っている松ノ木を利用した雷の実験です。この実験は、1811年に著した「阿蘭陀始制エレキテル究理原」の中に他の多くの実験とともに述べられており、フランクリンの実験から僅かに60年遅れているだけです。図(図は省略)には、松ノ木に針金を垂らし、絶縁台にのった人が針金の下端を左手に握り、右手からもう一人の人に火花を飛ばしている様子が記載されています。この実験を準備したのは宗吉であって、実際の実験は宗吉の知り合いの仲間が行ったのではないかとも伝えられています。写真(写真は省略)は、宗吉が松ノ木を利用して実験を行ったとされる大阪府下熊取町に現存する荘官中家屋敷と電気実験を行ったとされる記念の石碑です。電気実験を行ったとされる中屋屋敷は、阪和線熊取駅から徒歩15分ほどの所にあり、現在は重要文化財として保存されています。 見学に伺った時の案内の方によると、中屋屋敷は江戸初期の建物で、電気実験に用いたとされる樹齢600年、周囲5mもあった松ノ木は伐採しまったとのことです。

電磁界情報センターでは、電磁界(電磁波)への不安や疑問に対して正確な情報をお伝えし、
多くの方々に電磁界(電磁波)に対する理解を深めていただきたいと考えています。

情報発信

当センターでは皆様に正しい情報をお届けするためにニューズレターの発行やメールマガジンなどを配信しています。

情報発信
情報発信へ

お問い合わせ

電磁界(電磁波)や当センターの活動に関するお問い合わせ・ご質問・ご要望を受け付けております。

お問い合わせ
お問い合わせへ